Third Eye

【サードアイ番外編】  日本型の働き方の変遷と歴史 ~戦前編②~

サードアイ 2022.7.22

前回は明治時代に近代化が進むにつれ、産業で目覚ましい成長を遂げ、先進国の仲間入りをしたプロセスをご紹介しました。この時期は学歴によって就ける職種が決まる、いわゆるジョブ型雇用がベースになっていました。富める者は投資でますます富み、貧しい家庭は立身出世のチャンスすらないという二極化が確立されていった時代でもあります。
そのような時代でも、労働環境を改善しようと粉骨砕身した人物がいます。今回は戦前の隠れた偉人にスポットを当てたいと思います。

●日本的経営の祖・武藤山治
経営者の中には工員の劣悪な労働環境に疑問を持つ人もいました。それが鐘淵紡績(後のカネボウ)の兵庫工場支配人に27歳で抜擢され、その後社長となった武藤山治です。
武藤山治は「日本的経営の祖」と呼ばれ、「職工優遇こそ最善の投資なり」をモットーに「家族主義」と「温情主義」を掲げて実践しました。
武藤山治はアメリカに留学して現地で皿洗い、庭師、工場の見習いなどをして働きながら学んだ経験がある人物です。
武藤はこの時期の体験についてこう記しています。
「私が米国人の家庭に働いて感じましたことは、主人や主婦はもちろん、家族全体の召使に対する態度が優しく上品で言葉使いも極めて鄭重であることでした。何事を言いつけるにもplease(どうか)という言葉を必ず初めに使います」
もしかしたら、武藤がたまたま目にしたのは優しい家庭の姿だったのかもしれません。もしくは、武藤はアメリカでさまざまな差別に遭い、苦労した経験から労働改革をして差別を撤廃したのかもしれないと想像しています。
ともあれ、アメリカでの経験をもとに、鐘紡の工場では女工を「女工さん」と呼ばせました。
武藤は鐘紡で次のようなことを整備しました。

①乳児伝育所の設置
明治35(1902)年、武藤が最初に手がけた福利厚生施設。乳飲み子を持つ女子工員のための保育施設で、仕事の合間に伝育所に来て授乳ができるという、きわめて斬新な取り組みでした。

②「注意箱」制度
これは目安箱や意見箱のようなものかもしれません。オハイオ州の製造所の頭取が、3000人の職工員に呼びかけて社内提案制度をつくり効果を上げたという記事を読んで導入しました。この制度は会社のために有益な改革案を出した者に賞金を与えるという画期的な取り組みです。ただし、定着するまでには骨を折ったようで、もし上役が下位の者の投書に対して文句を言ったり嫌な顔をすれば、ただちに懲罰解雇をするとまで決められていたそうです。

③「鐘紡共済組合」の設立
ドイツのクルップ製鋼会社の従業員福利制度に倣って発足させたもので、退職金や傷病・死亡保険、妊娠中から産後までのさまざまな保証が盛り込まれ、後に多くの企業がこれに追随するような組合制度となりました。現在の健康保険制度のさきがけと言われています。

④教育機関の設立
武藤は鐘紡に入社した2年後に、寄宿舎に女子労働者に必要な教育を施すための補習教育施設を併設しました。後に「女学校」「幼年工女学校」に改修し、作文や習字、算数、唱歌、裁縫・編物などを習得できるようにしました。ただ、実際には深夜勤務や長時間労働をした後に勉強するのは過酷な状況で、出席したくてもできない労働者が多かったようです。その後、私立鐘紡兵庫女学校として文部省公認の小学校になります。

⑤無料診療所の設立
労働者のために無料で治療を受けられる診療所を工場の敷地内につくりました。武藤が鐘紡を去ってからもこの診療所は残り、戦後もカネボウの企業病院として続き、現在は神戸百年記念病院として地域の診療を担っています。

⑥社内雑誌の刊行
『鐘紡の汽笛』『女子の友』といった日本初の社内報を発行しました。

このほかにも近代的な大食堂や退職者のための救済院など、武藤は39件もの福利厚生施設をつくりました。
とくに2つ目の注意箱は、今でいうところのボトムアップの組織をつくろうとしたということでしょう。明治時代にこのような取り組みをした経営者がいたことに驚きを禁じ得ません。
このほか、「科学的操業法」、「精神的操業法」、「家族式管理法」といった独自の指針を次々と導入していきました。
「科学的操業法」は、仕事の段取りを分解し、ムダ・ムラ・ムリを発見して改善しようとした方法で、現在のトヨタのカイゼンの先駆けかもしれません。
「精神的操業法」は従業員の心の持ちよう、集中力の大切さや管理者の部下に対する責任を問い、「家族式管理法」は、会社組織を家族のように協和的なものにしようという試みでした。
働く環境を整備し、鐘紡の業績は急拡大して国内トップクラスの規模にまで成長を遂げました。さらに、高賃金で環境のよい鐘紡の評判を聞いた他社の女子工員が、脱走して鐘紡に殺到したと言います。
ただ、他の工場に比べると給料は高かったかもしれませんが、指導者と平の工員との格差は激しく、下は5円から、上は700円までと明確に差がありました。しかも、圧倒的に平工が多かったので、武藤でも給与面での待遇は手をつけなかったようです。
それでも、他の工場では工員に対して殴る蹴るの暴行をふるうのも当たり前だった時代に、自分の家族のように誠実に接した武藤は工員からの人望は厚く、昭和5(1930)年に鐘紡を退職する際には留任運動が起きたと言います。
しかも、武藤がいなくなってわずか3か月後、会社は従業員の給料を4割も削減し、その分株主へは7割もの高配当を実施しました。まさに株主至上主義の会社の姿です。それまで工員は団結して行動したことはなかったのですが、すべての工場で一斉に従業員が立ち上がり抗議しました。しかし、従業員の要望は聞き入れられずにねじ伏せられ、ここに武藤の温情主義と家族主義は終わりを迎えます。
鐘紡を退社後、武藤は政治家になり、最期は狙撃されて翌日に亡くなりました。犯人は生活苦の青年と聞き、「あの男の後を見てやれ」と言い残して亡くなったという伝説があります(犯人は自決)。
武藤山治は株主重視と従業員満足の両立を図ったと言えるでしょう。現在の企業が学ぶべき点は多々あるのではないでしょうか。

●渋沢栄一が目指した合本主義
一方、渋沢栄一は明治から昭和にかけて500もの企業の設立に携わったとされ、「日本資本主義の父」とも呼ばれています。
しかし、渋沢自体は「資本主義」という言葉は使わず、自らが理想として掲げていた経済システムを「合本(がっぽん)主義」と呼んでいました。「合本」というのは「資本を合わす」という意味で、この資本にはカネ、モノ、ヒトなどが含まれます。
ここから、合本主義は「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方」と定義されています。
松下幸之助が「会社は社会の公器」と言ったのは有名な話ですが、最初に言い出したのはどうやら渋沢栄一のようです。
渋沢は大蔵省の官僚だった時、『立会略則』という会社運営の手引書のようなものを作っています。ここで、直接的な表現ではないのですが、「会社は社会の公器」と同じ意味の表現が出てきます。
「商社は会同一和する者の、利益を謀り生計を営むものなれとも、又能く物貨の流通を助く、故に社を結ふ人、全国の公益に心を用ゐん事を要とす」
利益を追求しつつも、公益を追求する。渋沢は生涯このモットーを持ち続けていました。
当時、三菱財閥の岩崎弥太郎は自分の財閥だけが潤えばいいという「独占資本主義」でした。明治時代に財閥系の銀行はいくつもできましたが、それは自分の財閥に資金調達するのが目的でした。
対して、公益のために資金を集めていたのが渋沢栄一。さまざまな企業の資金調達をするために銀行をつくりました。渋沢と岩崎は意見の相違から大げんかしたというエピソードがあります。
しかし、経営学者ピーター・ドラッカーは、「岩崎は資金を説いた。渋沢は人材を説いた。今日では、二人とも正しいことが明らかである」と二人を評価しています。
「(中略)岩崎と渋沢は、たんなる豊かな日本ではなく、創造力のある強い日本をつくろうとした。いずれも、経済発展の本質は、貧しい人たちを豊かにすることではなく、貧しい人たちの生産性を高めることであることを知っていた。そのためには、生産要素の生産性を高めなければならなかった。資金と人材の力を存分に発揮させなければならなかった」(『断絶の時代』上田惇生訳、ダイヤモンド社)
この二人の切磋琢磨があったからこそ、明治時代は急速に発展していったのでしょう。

●格差社会をどう解消するか
 産業で欧米に追い付け追い越せと陣頭指揮を執ったのは渋沢栄一ですが、同時に渋沢は国が栄えるとひずみが生まれることに強い危機感を抱くようになりました。渋沢は自分がもたらした産業革命が、世の中で本当に救うべき人をむしろ苦しい立場に追い込んでいる事実に目を背けられなかったのかもしれません。
やがて、渋沢栄一は実業家として第一線を退いてから、大正5(1916)年に『論語と算盤』を刊行します。この本で「仁義道徳と生産殖利はともに進むべき」と述べています。
これは、常に社会貢献や多くの人の幸せの実現といった公益を追求する道徳と、ビジネス的に利益を上げていく経済の両方を同時に実現させなければならないという考えです。渋沢は『立会略則』での考えを最後まで貫いたのです。
『論語と算盤』の「合理的の経営」という項目では、「仮に一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならば、どんなものであろうか。如何にその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか」とあります。
 これが現在のSDGsやCSR(企業の社会的責任)に通じるものがあると、近年、渋沢栄一は注目されています。
渋沢は身寄りのない子供や老人を養うための施設である養育院の初代院長で、亡くなるまで50年以上に渡って養育院を守りました。
「富む者が富み、貧しきなる者貧しきに至るは社会に不自然なる変化の生ずる結果」と考え、「富者が貧者に盡す(つくす)は自然の法則」と説き、富裕層が貧しい立場の人を救済するのは当然だと訴えました。
これはいわゆる「ノブレス・オブリージュ」、身分の高い者はそれに応じて果たさねばならない社会的責任と義務があるという欧米の道徳感に感化されたのかもしれません。
残念ながら、今も日本の富裕層はノブレス・オブリージュの意識が低いと言われています。「自分さえ儲かればそれでいい」という経営者が増えたのは、渋沢に続く者がいなかったのが原因ではないかと思います。

ところで、渋沢栄一は自ら設立した会社は自分が経営者になるのではなく、自分が見込んだ人材に経営を任せました。渋沢が力を入れて育てたのは、士族の家柄の人が多かったそうです。士族は為政者としての心得や、世のために働き立身出世を遂げるという基礎教育を受けているので、自分の考え方に則った経営者になれると考えたのです。
しかし、士族には商いの経験がないので、まず小さい会社の支配人を任せて、慣れてきたら別の会社でもっと大きな仕事を任せる、という具合に徐々にステップアップさせていったそうです。企業間を移動させながら経営を経験させていった手法は、現在のプロ経営者に通じるものがあるかもしれないと、ひそかに思っています。

●戦前もグローバルな働き方に変える動きがあった
目下、日本では欧米型のジョブ型雇用にシフトすべきだという議論が起きていますが、実は戦前に第一次グローバル化が起き、世界的な働き方に日本も合わせなければならないという風潮が生まれていました。
渋沢が設立した大阪紡績(現東洋紡)をはじめとする繊維企業は、他の工場同様、幼い女子工員を朝から晩まで働かせて、長時間労働により過労や結核などで倒れる行員が相次ぎました。
しかし、各地で労働者が立ち上がって争議が起きるようになり、当時の政府が法律をつくろうとしました。10歳未満の工場雇用禁止、14歳未満1日6時間、17歳未満1日10時間の労働時間制限と夜業の禁止を盛り込もうとした際、渋沢は「時期尚早」と反対する側に立ったのです。
その理由について、「確かに人間は鼠とは性質が違うので、昼は働いて夜は寝るのが当り前である。しかしながら、なるべく間断なく機械を使っていくほうが得である。そのためには夜業が経済的にかなっている。ただ一偏の道理によって欧州の丸写しのようなものを設けられることには絶対に反対を申し上げたい」のように語っています。
ただ、それから10年が過ぎると紡績工場の様子も大きく変わり、世の中が進歩して労働時間を節約できるようになったので、「労働法を時期尚早とはもう言わない」と意見を変えています。
 資本家が賛成に回るようになり、ようやく工場法は明治44(1911)年に制定されました。これは日本初の本格的な労働保護立法で、労働基準法の前身になります。
工場法では、最低入職年齢を12歳としたうえで、15歳未満の者および女子は最長労働時間を12時間とし、深夜業を原則禁止し、休憩の基準や休日の基準を定めました。賃金も毎月1回以上支払う原則なども盛り込まれました。
それでもまだ過酷な状況であるのは否めません。
折しも、第一次大戦後の大正8(1919)年、ベルサイユ条約によって国際労働機関(ILO)が設立され、日本も加盟しました。そこで定められたILO憲章では労働時間を 1 日 8 時間かつ1 週 48 時間に制限する条約や結社の自由の承認、失業防止、幼少年と女性の保護、職業訓練などが盛り込まれています。
これによって、日本も国際的な働き方に合わせる必要があるという議論が起きるようになります。しかし、総会に出席した日本代表は、日本はヨーロッパに比べると工業発展が遅れており、労働時間の実態との差が大きいなどの理由で、「製糸業は週実労働時間 60 時間、その他の工業は週実労働時間 57 時間(=1日9時間半)」など、特殊な規定を設けさせました。
世界の標準に合わせることはできませんでしたが、それでも12時間労働が9 時間半に減っただけでも大きな進歩です。
その後、ILOの初代のトマ事務総長が来日した時、当時88歳であった渋沢と会談します。トマ氏の回顧録には「渋沢氏は、『資本主義や産業主義の導入は必要なことであって後悔はしていないが痛みも伴った。自らなしたことを補正するためにも労使交渉における労働組合の認知を助け、安定と融和の回復を促すことを自らの義務と心得ている』と語り、感動を覚えた」と記されています。
しかし、1930年代に入ると日本の中国大陸への侵略拡大に伴い国際的孤立が進み、やがてILOを脱退しました。
結局、日本が世界基準の働き方を実現するのは戦後になります。それでも、明治時代から雇用者を守るための法律をつくるための動きがあったという点は評価すべきでしょう。

2022年7月22日
武元康明

【参考文献】
・『武藤山治』 吉川弘文館 入交好脩著
・PHP人財開発
「武藤山治の決断 ~女工哀史の職場を天国に変えた温情主義経営」
PHP理念経営研究センター 代表 渡邊祐介
https://hrd.php.co.jp/executive/articles/post-288.php
・ダイヤモンドオンライン
「戦前のカネボウを育てた“紡績王”、武藤山治の退き際と経営観」
ダイヤモンド編集部 深澤 献
https://diamond.jp/articles/-/245036
・企業内共済会制度の歴史(2)
「鐘紡共済組合」
中央学院大学講師 永野俊雄
https://www.riebe.or.jp/study/history_2.pdf
・『わが社の教育体系の概要』一鐘紡株式会社一
垣内憲治
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/47/6/47_6_P284/_pdf/-char/ja
・「深夜業撤廃と綿糸紡績会社の女学校ついて ―工場内学校を中心として―」
谷敷 正光
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33939/rkz045-3-01-yashiki.pdf
・大原社会問題研究所雑誌2009.9・10
「近代日本の経営パターナリズム」
榎一江
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/611-03.pdf
・『週刊エコノミスト』いま学ぶ!渋沢資本主義 第4回 
「日本型『企業別労働組合』の源流」 濱口桂一郎
http://hamachan.on.coocan.jp/econo210330.html
・coki
「島田昌和先生に聞く~日本資本主義の父、渋沢栄一の実像とは?」

島田昌和先生に聞く~日本資本主義の父、渋沢栄一の実像とは?


・「渋沢栄一とステークホルダー資本主義~岩崎弥太郎との対比」

渋沢栄一とステークホルダー資本主義~岩崎弥太郎との対比


・國學院大學メディア
「渋沢栄一の『エリートらしからぬ』人脈構築術」 経済学部准教授 杉山里枝

渋沢栄一の「エリートらしからぬ」人脈構築術


・BUSINESS INSIDER JAPAN
「『青天を衝け』の渋沢栄一は、SDGsの先駆けだった。日本資本主義の父が私たちに残したもの」吉川慧
https://www.businessinsider.jp/post-240384
・日立ソリューションズ PROWISE WEB
「なぜ今、サステナビリティ経営が必要なのか」渋澤 健
https://www.hitachi-solutions.co.jp/prowise/fea_sx_shibusawa/01/p2.html
・週刊エコノミストオンライン
「『富の独占』より『公益』を重視する『渋沢資本主義』 今の日本には失われてしまったのか」永野健二
https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210302/se1/00m/020/063000c
「国の繁盛は貧民を増す 大富豪渋沢栄一はなぜ『養育院』を援助しつづけたのか」
黒崎亜弓
https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210309/se1/00m/020/013000c
・経済学雑誌 第99巻
「初期渋沢栄一の自由主義経済思想」
坂本慎一
https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB00000479.pdf
・「長寿経営と異文化研究 ―「社会の公器」志向を中心として―」
日本経済大学大学院 特任教授 後藤俊夫
https://www.ibunkakeiei.com/s-board/data/f548_00.pdf
・オンデック・プレス
【歴史と偉人に学ぶ 経営の本質】「渋沢栄一に学ぶ、サステナブルな経済・経営を生み出す構想力とは?」

【歴史と偉人に学ぶ 経営の本質】渋沢栄一に学ぶ、サステナブルな経済・経営を生み出す構想力とは? ≪その1≫


・国際労働機関HP
https://www.ilo.org/tokyo/about-ilo/lang–ja/index.htm
・法政大学学術機関リポジトリ
「 ILO第1号条約と労働時間問題」 石井 聡
file:///C:/Users/81706/Downloads/ohara_743-744_p20.pdf
・連合ダイジェスト
「渋沢栄一と労働組合の数奇な関係」

渋沢栄一と労働組合の数奇な関係


・「日本の賃金-歴史と展望-」
公益財団法人 連合総合生活開発研究所
https://www.rengo-soken.or.jp/work/201212-02_01.pdf
・明治学院大学機関リポジトリ
「労働力から『児童』へ : 工場法成立過程からとらえ直す教育的子ども観とトランジションの成立」 元森 絵里子
file:///C:/Users/81706/Downloads/shakaifukushi136_27-67.pdf
・厚生労働省HP
広報誌「厚生労働」
「工場法施行から100年 今だから学びたい労働基準法の成り立ちとその意義」
https://www.mhlw.go.jp/houdou_kouhou/kouhou_shuppan/magazine/2016/08_01.html
・東証マネ部!
「歴史的な視点で経済や市場を学ぶ」
https://money-bu-jpx.com/special/history/