Third Eye

【サードアイ番外編】  日本型の働き方の変遷と歴史 ~戦前編①~

サードアイ 2022.7.6

ここで漢字クイズです。
「労動」と「労働」。このうち、正しいのはどちらでしょうか。
正解はもちろん労働です。
しかし、哲学者の清水正徳氏によると、「働」という字は明治以降に日本でつくられた和字だそうです。それまで「労動」という言葉はあっても、「労働」という言葉はなかったのだとか。動くだけではなく働くのだ、という人間の行動の能動性を字に持たせたいという気持ちがあったのだろうと清水氏は分析しています。
それは、明治時代にそれまでの「労動」では表せないような大転換が起きたからかもしれません。開国と共に急速に西洋化が進み、産業革命が起きると機械が動くようになりました。私は、機械が動くのではなく人が動き、そしてそれを労(ねぎら)い、労われるのが労働ではないかと想像しています。
激動の時代に、日本人の働き方はどのように変わっていったのでしょうか。
今回はサードアイの番外編として、日本型雇用の変遷とその背景にある歴史について見ていきたいと思います。ただ、私は歴史の研究家ではありませんので、数々の資料の一部を切り取ったにすぎません。専門家によって意見は異なると思いますので、ご容赦いただけると幸いです。

●日本型資本主義の黎明期
NHK大河ドラマ「晴天を衝く」をご覧になった方はご記憶されているかもしれませんが、渋沢栄一がフランスに留学した際に証券取引所を見学して、初めて「株式交換所」というものを知るシーンがありました。
帰国後、渋沢は明治新政府に出仕して、大蔵省に入省することになります。そこで財政制度や通貨制度の導入、国立銀行条例の起草立案などに当たりますが、政府の方針に疑問を感じるようになり、大蔵省を辞めて実業家としての道を歩み始めます。
この時期、政府は「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに、欧米に追いつけ追い越せと産業に力を入れます。世界遺産にもなった富岡製糸場は日本初の官営模範工場です。渋沢栄一らの尽力で設立され、当時最大の輸出品であった生糸の品質向上と技術者の育成を目的にしていました。
そのほかにも、西欧の先進技術を導入し、鉄道、造船、鉱山などの工業も発展していきます。
そして、渋沢は明治6(1873)年に日本初の株式会社「第一国立銀行(後のみずほ銀行)」を、三井組の大番頭である三野村利左衛門や小野組の小野善右衛門らと共に設立しました。銀行という言葉をつくったのも渋沢です。
その際に市場から資金を調達しようと、株主募集のパンフレットでこんな呼びかけをしました。
「そもそも銀行は大きな川のようなものだ。役に立つことは限りない。しかしまだ銀行に集まってこないうちの金は、溝に溜っている水やぽたぽた垂れているシズクと変わりない。(中略)銀行を立てて(原文ママ)上手にその流れ道を開くと蔵やふところにあった金がより集まり、大変多額の資金となるから、そのおかげで貿易も繁昌するし、産物も増えるし、工業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、すべての状態が生れ変わったようになる。(後略)」
この言葉からも分かるように、事業に融資するのを公共の目的として銀行を設立しました。しかし、100万円分公募しても44万円しか集まりませんでした。明治時代の1円は現在の3800円に相当すると言われています(2万円という説もあり)。その数値で換算すると、38億円分公募して約17億円が集まったことになります。
このとき渋沢は、株式を売買する株式交換所があれば会社の運営資金が集まりやすくなり、経済が発展すると考えたのです。そして、1878(明治11)年に、現在の東京証券取引所がある場所に「東京株式取引所」が設立されました。
最初は銀行が投資する会社がなかったので、渋沢は得意先をつくるために、東京瓦斯会社(現東京ガス)や日本鉄道会社、東京海上保険会社など社会インフラに関わる会社を次々と設立していきます。
その後、会社設立ブームが起き、10年後には会社数は全国で4000社を上回りました。同時期に株式投資ブームも起こります。
ちなみに、明治11(1878)年 に上場した年の東京株式取引所株(取引所は公的施設ではなく今も昔も株式会社です)の平均は 165.9円。明治40年に最高値780.0円まで上昇しましたが、翌年の最高値は 155.3円と変動が大きかったようです。いずれにせよ、庶民には手が届かない値段であったのは間違いないでしょう。
主な株主は名望家や地主、商人で、株式の保有割合は30%台で推移していました。ちなみに、この時期の特色として、皇室と華族が大株主の42%を占めていました。銀行、船舶、鉄道というインフラ系の有望銘柄に投資していたようです。
明治時代は経営者が大株主だったこともあり、各会社の配当性向(年間の配当金の割合)は80%に達している年もありました。とくに東京株式取引所は100%の配当性向、つまり剰余利益はすべて株主に還元していた時もあったようです。そこまでしていたのは、高い配当を出す企業の株価が高くなる傾向があったからです。
そのような背景もあり、戦前は実はアメリカ的な株主資本主義であったと言われています。株主の発言力がひじょうに強くて、昭和初期まではM&Aも活発でした。会社の利益の大部分を株主に配当し、経営陣と労働者の所得格差も大きい傾向がありました。
なお、日本銀行が誕生したのは明治15年(1882年)と、株式投資が始まって以降です。西南戦争の影響で激しいインフレが起き、さらにその後、増税によって不況になりデフレが起きたので、通貨価値の安定を図るために大蔵卿(現在の財務大臣)だった松方正義が創設しました。初めて日本銀行券が発行され、近代的な貨幣制度が生まれます。

●ホワイトカラーとブルーカラーの二極化が進む
日本は明治維新後、わずか20年で産業革命を経て資本主義国家に生まれ変わりました。さらに、日清戦争や日露戦争に勝って世界の強国へと駆け上がっていきます。
奇跡のような成長を成し遂げた一方、光には陰を伴います。
富岡製糸場はフランスをモデルにしていたため、1日の労働時間は7時間45分で、昼休みや休憩時間もきちんと取れました。週に1度は休みにし、年末年始や夏に10日間の休暇もありました。初期の女工は士族の子女が対象だったこともあり、給料も高く、寄宿生活ではあったものの寄宿代や食事代は自己負担なし。構内には病院が建てられ、フランス人の医師が治療を行い、治療費はすべて会社持ちでした。
しかし、それ以外の工場では過酷な労働が常態化していました。
農村や都市の貧しい家庭の子が女工となり、低賃金で朝早くから夜遅くまで17~18時間も休む間もなく働いていました。休日は、年末年始と旧盆に数日取れるぐらい。熱湯を使用するため工場内の湿度は上がり、水蒸気で女工はずぶ濡れになって働き、結核で命を落とす女工は少なくありませんでした。しかも、逃亡したら懲罰がある。「あゝ、野麦峠」という映画がありましたが、まさにそのような過酷な状況だったのです。
この時期、ホワイトカラーは大卒のエリート層が占め、企業は社員の囲い込みを図りました。たとえば、三井物産では独自の恩給制度(退職金制度)の創設や独身寮の拡充を進めて、長期に雇用できるような環境を整えたそうです。ホワイトカラーでは長期雇用化が進む一方で、ブルーカラー層はよりよい待遇を求めて会社を渡り歩いていました。
近代的な労働が浸透するにつれ、経営者は年俸、事務や技術職を担当する職員は月給制、現場で働く工員は日給か出来高給という賃金体制が定着していきました。当時は学歴で就ける職務が決まっていて、小学校卒かそれ以下は工員、中学校や実業学校卒は職員、高等学校や大卒は管理職でした。完全に学歴社会で、給料や休日以外にも、工場へ出入りする門や食堂、トイレまで別にしていたようです。
明治末期から、新入社員が取締役になるような内部昇進する慣行ができていきました。ただし、それは将来経営者や幹部になる大卒や高等学校卒の社員に限ります。それらの社員は幹部になるための知識や経験を養うために、社内でさまざまな部門を渡り歩きました。
つまり、このころから新卒採用、部署の異動、長期雇用、内部昇進という日本型の経営の原型ができつつあったようです。
 ブルーカラー層への待遇も変化が起きていきます。
日露戦争後にはさらに産業が活発になります。それまでは現場の親方の権限が強く、親方が仕事を請け負って職人に賃金を払っていたので、職人を引き連れて他の職場に移ることもありました。それを防ぐために、会社が職人を直接雇用し、時給を払うようになったのです。親方には会社の利益を分配するなどして、会社への忠誠を図るようにします。
さらに、大企業は自社で工員を養成する設備を整えるところも出てきました。これも現在の社員教育に通じるものがあるかもしれません。
しかし、熟練工があちこちで不足し、そのため実力主義を反映した賃金になり、熟練工は賃金アップを求めて転職する流れはますます活発になりました。戦前は転職するのが当たり前だったのです。

2022年7月6日
武元康明

【参考資料】

・『働くことの意味』 岩波新書 清水正徳著
・『マーケット進化論』 日本評論社 横山和輝著
・『明治大正国勢総覧』 東洋経済新報社
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269537
・「明治初期における株主総会と株主の地位 ―少数株主保護に関する準備的考察―」
田丸祐輔す
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/23172/hogaku0110202830.pdf
・「我が国の株式会社誕生と上場の道のり 〜上場会社ゼロで開業した東京株式取引所〜」
東京証券取引所 金融リテラシーサポート部 千田康匡
http://www.camri.or.jp/files/libs/1128/201808021002535663.pdf
・東証マネ部! 「歴史的な視点で経済や市場を学ぶ」
https://money-bu-jpx.com/special/history/
・日本取引所グループ
株式取引所開設140周年
https://www.jpx.co.jp/corporate/events-pr/140years/index.html
・「日本的経営は戦時体制の遺物」
一橋大学大学院 経営管理研究科 特任教授 藤田勉
http://www.camri.or.jp/files/libs/1546/202011301606389427.pdf
・「証券市場誕生物語 ~明治の新経済人たち~」
千田康匡
https://www.jsri.or.jp/publish/review/pdf/5805/01a.pdf
・リクルートマネジメントソリューションズ
「労働中心の時代(近代以後の労働)」
組織行動研究所所長 古野庸一
https://www.recruit-ms.co.jp/issue/column/0000000760/?theme=diversity
・日本労働研究雑誌
「企業コミュニティと日本的雇用システムの変容」
山下充(明治大学経営学部准教授)
https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2017/09/pdf/004-015.pdf
・大原社会問題研究所雑誌2009.9・10
「近代日本の経営パターナリズム」
榎一江
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/611-03.pdf
・アジ歴グロッサリー
「公文書に見る戦時と戦後 -統治機構の変転-」
終身雇用制はいつからあるの?
https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa22.html
・「戦前期における株式投資成果の再評価
1878年から 1943年に至る東京株式取引所株の投資収益率について」
平山 賢一
file:///C:/Users/81706/Downloads/KY-AA11950211-14-04%20(1).pdf
・Harvard Business Review 2015.09.15
早稲田大学ビジネススクール経営講座
「日本特有の『経営の常識』はいつ生まれたのか」
日本的経営と日本企業の進化【第1回】
相葉 宏二 早稲田大学ビジネススクール教授
https://www.dhbr.net/articles/-/3495?page=2
・「第一国立銀行の財務諸表と渋沢栄一」 渡辺和夫
file:///C:/Users/81706/Downloads/KER-4-001%20(1).pdf
・国立公文書館
「近代国家日本の登場 ―公文書に見る明治―」
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/establish-bank/index.html
・man@bow
「明治時代の1円の価値ってどれぐらい?」
https://manabow.com/zatsugaku/column06/